COWBOY KATE & OTHER STORIES by Sam Haskins

序  文(2015年)

 1964年、ニューヨークのクラウン社から初版が世に出てからこのかた、『ケイト』は、20世紀の――こと戦後芸術写真の流れにおいて時代を画する作品でありつづけている。数々の表彰および栄誉を受けたことはいうまでもない。初版の年には仏ナダール賞にかがやき、近年でも、国際写真センター(ICP)が2005年にニューヨークで開いた展覧会「本をひらく:写真集の歴史 1878年から現在まで」で顕彰展示という栄誉に浴した。とはいえ、あまたの受賞の事実よりも、その影響の広がりにこそケイトの真価はあるといえよう。イタリアの名監督セルジオ・レオーネの机にはつねにケイトの切り抜きが貼りつけられていたし、まぎれもなくケイトをまねている映画界のスターやスーパーモデルの名は挙げはじめればきりがない。こうしてケイトはすっかりアイコニックな存在となった。

 ここに贈る『カウボーイ・ケイト&アザー・ストーリーズ』は、60年代という時代の創造的な流れが写真を通じて蒸留することをえた、不可思議かつ力強い作品というにとどまらない。初版から半世紀の間、つねに新たな世代の写真家や写真の愛好家から発見されつづけ、支持されつづける本書は、もはや時代を超えた不朽の一冊といえよう。「美術監督の書棚に本書がないとすれば、なんと空虚なことだろう」とは、米GQ誌のジョナサン・ヒーフの弁だが、まったく言い得て妙だ。美術の歴史に照らしても、ケイトは二つの点で新たな局面をひらく作品となった。一つは、画像の演出において、初めて写真の粒子を意識的に用いたことである(65年初版のジュリア・ピレリとカルロ・オルシの傑作写真集『ミラノ』にもケイトの影響はあきらかだ)。もう一つは、その語り口にある。画像が物語をつむぐという写真集は、ケイト以前には存在しなかったものだ。『カウボーイ・ケイト』には、ページの版面設計に意を尽くしたサムの思いが現れている。当時サムは、米ハーパース・バザー誌の名高い美術監督アレクセイ・ブロドヴィッチに傾倒していた。「写真集というものは、なだらかに速度を変えつつ流れる一編の音楽のようにあるべきだ」と考えていたサム・ハスキンスの面目躍如というべきだろう。

 初版が出た60年代は、いわゆる性の解放が叫ばれた時代でもあり、ケイトに対する批評の多くは、それがヌードだという点に集中した。こんにち、われわれのからだやその画像は珍しいものではなくなっている。いまこそ『カウボーイ・ケイト』の本来のすがたを目にし、写真の天賦の才にめぐまれたひとりの男の作品を味わうことができるにちがいない。

 

ルドウィグ・ハスキンス

 

今回の出版にあたり、デジタル上の補正と処理はすべて、サムの孫であるオーレン・ハスキンスが手がけた。オーレンは、ファイルを一つずつ丹念にひもとき、64年のオリジナルプリントの見栄えと質感を再現するよう努めた。

序  文(2006年)

 『カウボーイ・ケイト』の初版が世に出たとき、わたしは十代の青年だった。その書物は、当時わたしの限られた小遣いでは手が届かなかった。後年ようやく手に入れたときには相応の高値がついていたが、それもやむを得ないことであった。というのも、数年のうちにこの書物は、垂涎の稀覯書となっていたのだから。ある雑誌の書評でケイトと出会い、そのすがたにたちまち魅せられてしまったのは、初版発行から間もない頃のことだった。恋に落ちるのに時間はかからなかった。わたしはケイトの写真を切り抜き、それを今日まで手元に置いている。女性らしいくつろいだ魅力、そして画像から立ちのぼる、いきいきとした輝きがわたしの心をとらえた。そこには、ごく自然な感覚やすがすがしさがあり、強く情感に訴えてやまないものがあった。のみならず、意を尽くした画像の構成や作品に注がれる確かな眼の存在も感じられるのだ。

 とはいえ、当時、写真を分析しようなどと考えたわけではなかった。人の目を喜ばせる美しさというものが写真の上で完全に表現されている実例を目の当たりにし、わたしはひたすらに高揚感を覚えていた。ケイトの肌を眺めるだけで、気分が晴れる思いがした。髪はほつれ、背後に光が当たるさまは神々しいほど。そして、まぶしい光の中から彼女がすがたを現す。テーブルにつく、カップを手にする。一見ごくさりげない、自然なふるまいだが、その動きは予測がつかない。たとえそれが考えぬかれたものだったとしても、写真家と被写体とが打ち解けた空気の中で、直感にもとづく信頼関係を築いていなければ、こうしたことはありえなかっただろう。そして写真家は、まるで映写技師ででもあるかのように、速度や勢い、リズムに細心の注意を払いつつ、ページの流れを組み立てたのだ。

 時は流れた。しかし本書の衝撃は何ら失われることはない。永遠という言葉は、ケイトと、海の精霊セイレンのように彼女をとりまく姉妹たちのためにこそあるといえよう。

 

フィリップ・ガーナー

 

この文章は、2006年の『カウボーイ・ケイト&アザー・ストーリーズ:ディレクターズ・カット版』の出版にあたり執筆された。執筆者のフィリップ・ガーナーは、世界的オークションハウス、クリスティーズの写真部部長の職にある。

序  文(1964年)

 『カウボーイ・ケイト』と、ここに収めた物語は、サム・ハスキンスという類まれなる才能がなければ、けっして生まれることはなかった。

 人類が綿々と伝えてきた古い伝承のように、なじみ深い主題にもとづくある種の寓意がこの物語を通底している。ありし日々をしのぶかのごとく、物語は小道具をちりばめ、因習をほのめかし、古きよき「大西部」をめぐる郷愁を醸しだす。しかし物語が語らんとするところは、ほかでもない、「美の勝利」――若く、すこやかで、けがれなき美しさの――である。

 技術についていえば、本書の語り口は、伝統的な物語じたての写真集との共通点よりも、むしろ意を尽くした映画に見られるバレエのなめらかなシークエンスを思わせる。物語は流れをもち、読み手をぞくぞくさせずにはおかない。同時に破綻のない語り口をもち、堂々たる体裁もそなえている。楽しみと誇張、そして贅沢と抑制とが、相矛盾することなく同居している。説明しすぎのきらいはみじんもない。思う存分に物語を解釈する楽しみは読者にゆだねられている。

 精神的にいうなら、本書は女たちの愛らしさを歌いあげる讃歌だ。叙情をたたえたその香気は、中世の詩人スペンサーやベン・ジョンソンを思わせる。心を楽しませる工夫が本書を満たしている――とりわけ「見習い」The Apprentice と「サンデイ」Sunday を見てほしい――読者は愛らしい女性という存在とたわむれ、智慧の喜びを感じるにちがいない。

 最後にひとこと言い添えたい。白と黒の間に広がるグラデーションのなかで、ごくかすかな差異をも取りこぼすことなくいかしきったハスキンスの腕前の、クラシックとも称賛すべき高い技術の力量をどうか見過ごすことのないように、と。世に熟達者は少なくないとはいえ、これだけの技能をもつ者を見つけるのは難しい。色調の端から端までを使いきり、求める色を引き出すハスキンスの腕前、あるいは色を選び抜く天賦の才――ある色を強調し、ある色を抑制する力量――に裏打ちされた『カウボーイ・ケイト』は、わたしの知るかぎり最も印象的な写真集の一つといってよい。じっさい本書は、不朽の名作となるにちがいない。

 

ノーマン・ホール

 

1964年にグラビア印刷で世に出た『カウボーイ・ケイト』初版に寄せられた序文。ノーマン・ホール(78年逝去)は生前、英フォトグラフィー・アニュアル誌、ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・フォトグラフィー誌およびロンドン・タイムズ紙で写真編集者を務めた。

あらすじ(1964年)

 昔むかし、あるところにケイトという名の女性がいました。花のように白く、陽射しのように温かい女性です。ウイスキーのように天真爛漫で、いつもガス灯のように揺れ動いていたそうな。彼女は古き大西部を夢みるカウボーイでありながら、そのくせ一度もブーツを履くことはありませんでした。

 西部の太陽が照りつけるなか、カウボーイのケイトは自分の小屋にこもり、ろうそくを削り、拳銃に磨きをかけるのでした。ブーツの拍車をジャラジャラさせ、鋲止めをガチャガチャ鳴らしつつ、ケイトは愛馬の鞍に前輪をかけ、西部の陽射しのなかで座っています。目を疑いたくなるような眺めです。さて、夜になるとケイトは、月が出るのを待ちました。月が出ると、大きな黒い国じゅうが闇に閉ざされます。するとケイトは、フリルを返し、やおら動き出すのです。なんと愛らしいカウボーイでしょう。

 さて、ある暗く青白い夜のことでした。いつものように夜の訪れを待って、カウボーイのケイトは、大きな跳ね馬のような自転車を引っぱり出して飛び乗ります。サドルの上で背筋をたて、両脚をすらりと伸ばし、暗い灯りと心弾む音楽を求めて町に向かうのでした。酒場は鈴を鳴らしたような騒ぎです。殴りあいの喧嘩をする男たち、酒をあおる飲み助たち、言葉を探しまわる詩人たち。女たちは踊りつづけ、ワインのような気軽さでウイスキーがどんどん注がれます。そんな騒ぎをよそに、ケイトは、とげのあるサボテン畑を抜け、まっすぐ奥の暗い部屋に向かいました。トランプ遊びが行われているのです。部屋の中には、ロージーという名の女もいました。

 ロージーは、清らかなケイトとは好対照に、腹黒い女でした。ロージーの両脚は、誰もがうらやむほどすらりと伸び、お腹はふくらんでもへこんでもいませんでした。かたや、胸のふくらみは、すべり落ちそうなほど起伏にとみ、その唇は地獄の入口もかくやというほどに深く裂けていました。そんなロージーが、トランプのエースをだまし取ろうとします。

 かたやケイトは、からだの曲線こそ蛇行するリオグランデ川を思わせながらも、西部広しといえど誰にも負けないほどまっすぐな気質です。暗い奥の部屋に非難の声が飛びかい、ケイトの白い胸は怒りに波打ちます。やがて一発の銃声。部屋じゅうの沈黙。ロージーの白い馬は、飼い主が天国に召されたことを知り、悲しくいななきました。

 胸に星のかたちの銀飾りをきらめかせ、銀貨を磨きあげた保安官は、ロージーの下手人、ケイトを捕らえた者にそれらを与えると宣言します。保安官はそこかしこの木々にこの布告を打ちつけました。町じゅうの勇ましい巨漢のハンターたちが腰ベルトのバックルを締め、舌なめずりするなか、ケイトは無実の罪で捕らえられてしまいます。西部広しといえど、ケイトほど曲がったことを嫌う者はなかったでしょう。そのケイトが捕らえられ、ブーツを履くこともゆるされず、監獄の鎖につながれてしまったのです。ケイトの無実を信じる者は、もはや実の母親ただ一人を残すのみ。

 こうしてまた日が沈みました。囚われの身のケイトは、涙を流し、やがて眠り、ことの真相を夢に見たのです。夢の中でケイトはあの暗い奥の部屋に戻っています。ロージーが電光石火のいかさまをしている場面です。元の通り、非難の声が上がり、やがて銃声が聞こえ、トランプは終わりを告げました。ケイトは、見るはずだったものをやっと悟ります。ようやくなすべきことを知ったのです。

 ケイトは、夜の明けないうちに起きあがり、そっと監獄から姿を消していました。まるでロージーの幽霊のように忽然のうちのできごとです。ケイトは荒地の冷たい砂を踏んで走りました。途中、しゃれこうべが転がり、十字架が立ちならび、骸骨も散らばっていました。ケイトは、蛇のすみかを越え、音のない荒地をひたすら駆けたのです。途中、狼の遠吠えが聴こえ、ケイトは一目散に川に飛び込みました。すると川の魚はケイトのあとを追って泳ぎます。夜明けの暗い川の中で、ケイトの肌の白さはひときわ目立ちます。まもなくケイトは夢でみた場所にたどり着きました。太陽がのぼり、朝の陽射しがケイトのからだを温めます。ケイトは夢にみた場面が現れるのを待ちました。やがて太陽を背にして、ロージーの下手人が馬にまたがってやってきました。ケイトは、飛び跳ね、太陽を背にしたロージーの下手人との闘いにいどみます。はたして下手人は捕らえられました。さて、町に帰ると、保安官は恥じ入り、西部の陽射しを受けて輝く目をみはっています。草原から熱い風が吹きぬけ、ヤマヨモギの草はゆれ、ロージーの下手人は裁きを受けるのです。暗い奥の部屋では、ありし日と変わらず、ウイスキーがワインのようにどんどん注がれています。トランプ遊びも元の通りです。神よ、あなたは正しかったのです。ただし、ケイトが女性でなかったらどうだったでしょう。牡蠣はただ醜い存在であるばかりではなく、それは、真珠を抱いていたのです。硬い綱と、奈落の底、絞首台は天を仰いで突き立てられています。誰もが死ぬときはロージーのように葬られることでしょう。

 

デズモンド・スキロウ

 

ここに語られるケイトの物語は、サムと妻のアリダが構想し、当時、ロンドン広告業界の要職にあったデズモンド・スキロウが文章にまとめた。スキロウは、広告業界の重鎮が実はスパイだったという設定のスリラー小説の三部作で知られる。

技法について(1964年)

 ケイトの物語に出てくる監獄の舞台は、わたしの八つになる息子ルドウィグが設計したものです。現実をまったく考慮することのない息子の楽しいやり方につられるように、しだいにわたしも現実逃避のコツをつかんでいきました。

 というのも、わたしは、ケイトという物語にまぎれもなく現実離れした手触りを持ち込みたかったのです。それにはやむをえない事情もありました――野外での撮影にともなう予期せぬ影響をすべて排除し、撮影を思いのままに操るべく、「野外」の情景をスタジオ内部で撮ることにしたのですから。砂漠を走り抜けるケイトをとらえた写真を例にあげましょう。この画像は、三つの異なる要素をそれぞれ別に撮影し、最後に重ねて印刷しています。ごく細心なページ設計のうえで、この技法はかえがたい効果を発揮しました。

 また、わたしは、古きよき西部劇に出てくる照明を再現すべく努め、ケイトの制作では、ほの暗い明かりをいろいろと試してみました。ケイトの机の上で佇む物たちは、油灯で照らし、写真に収めました。影を照らすうえでいくらか照明を足すさいも、ほかのものでは明るくなりすぎるので、ろうそくの明かりを用いました。ロージーがテーブルについている写真では、頭上につるした油灯だけを頼りにし、ほかに照明を足すことはしませんでした。

 印画紙の上で粒子がざらついて見える効果は、粗いフィルムと現像液を用いる通常のやり方では表現することができませんでした。ダースト社の集光式引き伸ばし機の光源として、通常使うことのない500ワットの電球を用い、ネガに写った画像のごく小さな部分から思いきって大きく引き伸ばしました。全編を通じ、イルフォード社の中粒状性フィルム〈HP-3〉を用い、同社の現像剤〈マイクロフェン〉で現像しました。印刷は、コダック社の印画紙〈コダブロマイド〉および同社の現像液〈D-163〉を用いました。技術上の広範な必要に応じて、ほとんどあらゆるサイズのネガを使い分けました。カメラはニコン、リンホフ、ローライフレックス、ハッセルブラッドおよびカルダン・カラーを用いました。

 

サム・ハスキンス

著者について(2015年)

 戦後20世紀の芸術写真の流れにおいて、サム・ハスキンスという写真家は、すっかり異なる複数の様相を帯びている。60年代初頭、サムはまだ世に知られる以前で、わくわくする気分で写真の仕事に熱中していた。南アフリカに生まれた若き写真家として、サムは、州都ヨハネスブルグで商業写真スタジオを営み(同大陸における独立系広告スタジオの草分けといえよう)、昼は忙しく働き、夜になると、ようやく自分の作品制作にとりかかるという日々をすごしていた。1960年から7年間をかけて、サムは4冊のモノクロ写真集を世に出し、新境地を切りひらいた。こうして工芸写真および芸術写真の両面で、サムの影響力は決定的となった。くだんの4冊とは、すなわち、60年代という時代を体現する64年の『カウボーイ・ケイト』Cowboy Kate 、美術史の流れを語るうえで欠かせない62年の『ファイヴ・ガールズ』Five Girls(人物写真を古い手法から解き放つ一冊となった)、そして写真の専門家以外からは忘れられがちな67年の隠れた傑作『ノヴェンバー・ガール』November Girl 、この三冊がハスキンスの人物写真集三部作をなしている。残る一冊は、67年に世に出た『アフリカン・イメージ』African Image であり、同書はサハラ以南のアフリカに住む人びとと民俗芸術に別れを告げるサムのラヴレターだった。翌68年、すでに国際的名声を得ていたサムは、拠点をロンドンに移し、住み慣れた大陸を離れて大きく一歩を踏み出した。

 ここでサム・ハスキンスの生まれについても触れておこう。サムは、南アフリカの地方都市クルーンスタッドに住む、ごく貧しい、ありきたりの家庭に生まれた。この貧しさと、宗教的に閉じた環境がサムの少年期を方向づけた。さいわい、絵を描く才能に恵まれたこととサーカスとの出会いがあり、サムは芸術の道を選び、現実から逃れるすべを見つけた。のちヨハネスブルグに出て、素描、画法、人物彫刻など、ごく古典的な、正式の芸術教育を受けた。さらに49年から51年にかけてロンドンに留学し、写真術を学んだ。サムは生涯、西洋芸術に対する情熱をいだき続け、その古い伝統に連なっていることの自覚を忘れることはなかった。ますます政治化する南アフリカから、サムと彼のカメラが離れていくのは避けがたかった。とはいえ、ヨハネスブルグという、西洋から離れた町にあったサムは、アフリカの熱気を受けつつ、60年代の視覚芸術の革命ともいうべき変化を舞台から離れた位置で眺めることができた。この組み合わせがあったればこそ、彼は特異な存在となることができたのだ。サムは、人物写真を作品に仕上げる技量をそなえ、モノクロ写真に特有の立体性を知り尽くし、人を楽しませようとする根っからの気質をもっていた。これらがすべて、アイコニックな作品となり実を結んでいる――こうしてサム・ハスキンスは、60年代という格別の時代において、まことに個性的で確固たるスタイルをそなえた写真家となりえたのである。

 

ルドウィグ・ハスキンス

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